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韋瓘(いかん)は中唐の進士。字は茂弘(もこう)。万年県(現中華人民共和国(中共)陝西省西安市)の人、正卿(せいけい)の男で珩(こう)の弟、夏卿(かけい)の侄(おい)に当たる〔林宝『元和姓纂』巻2京兆諸房韋氏条、『新唐書』宰相世系表4上(巻74上表第14上)、龍門公房韋氏。因みに夏卿の女で従姉妹の叢(そう)が後掲元稹に嫁している。〕。 生年は徳宗の貞元4年(基督教暦788年、下皆效此)と記録される〔宋『錦繍萬花谷』後集巻34所引『続定命録』(垣下生善筮条)。なお次注参照。〕が実はその翌5年の生まれと推定され〔李劍國「周秦行紀」『唐五代志怪傳奇叙録』(第2刷版)第3巻所収、南開大學出版社、1998年。前掲『続定命録』は貞元 4年(788)生まれ、元和4年(809)に21歳で登第とするが、逆算すると生年は貞元 5年となる。恐らくは貞元 5年の誤り。〕、憲宗の元和4年(809年)、21歳の時に状頭で進士に及第し〔莫休符『桂林風土記』碧潯亭条、前掲『続定命録』、元辛文房『唐才子伝』巻6鮑溶伝。〕、同8年以前にの幕職に〔清董誥『全唐文』巻695所収韋瓘「宣州南陵県大農陂記」。〕、次いで同10年以前にの幕職になり〔同上韋瓘「修漢太守馬君廟記」。〕、15年以前に入朝して(秩従八品上)を授けられたらしく、15年10月に右拾遺等と即位後の穆宗に対して酒色に溺れすぎていると諫奏している〔『新唐書』李珏伝(巻182列伝第107)、宋王溥『唐会要』巻55諫議大夫元和15年10月条。〕。そして恐らくは同年中に(秩従七品上)に改替されて史館修撰に充てられ〔元稹『元氏長慶集』巻47「独孤朗可尚書都官員外郎韋瓘可守右補闕同充史館修撰制」。「守」とあるので散官はそのままであったらしい。〕、その後、倉部員外郎(戸部の判官、秩従六品上)、司勲郎中(吏部の判官、秩従五品上)を経て〔『郎官石柱題名』「倉部員外郎」及び「司勲郎中」。〕(秩正五品上)に昇る〔『新唐書』韋夏卿伝(巻162列伝第87)附載瓘伝。〕が、文宗の大和7年(833年)に(現中共広東省中西部)の長史(秩正六品下)に貶官された〔清曾国荃等撰『湖南通史』巻265所載韋瓘「浯渓題名」(以下「題名」)。この「題名」前半部は宋洪邁『容斎隨筆』巻第8「浯渓留題」に判別不能箇所を削って引かれ、後半部は『全唐文』前掲巻に「浯渓題壁記」として引かれている。なお、下注参照。また、以上の韋の経歴は李前掲書に拠った。〕。 莫休符(ばくきゅうふ)『』に拠れば、韋は門閥貴族の出自を恃んで顕臣の座を志向していたというので〔前掲碧潯亭条。〕、恐らくはそうした性行から李徳裕と近しくなったようで〔王夢鷗『唐人小說硏究四集』上編4「牛羊日曆及其相關的作品與作家辨」、藝文印書舘、中華民國67年。〕、所謂牛李の党争では徳裕を領袖とする李党の一員に数えられ、『新唐書』に載せる伝に拠ると徳裕が宰相の座に就いて滅多に人と会わなくなってからも韋の訪問はこれを迎えその頼み事を聞く程であったという〔前掲瓘伝。〕。なお、『新唐書』はその為に牛党(反徳裕派)の領袖に悪(にく)まれ、徳裕が宰相を罷免されると同時に貶官されたと記録するが、徳裕の拝相は大和7年2月、罷免されてに転出するのが翌8年10月なので、韋の謫官はその年紀に錯乱が無ければ徳裕の在任中であってその失脚とは別の理由にあった事になる〔前掲「題名」に大中2年(849)12月の16年前に謫官されたと自叙しており、逆算すると大和7年(833)になる。この場合、現伝「題名」が「十五年」を「十六年」と写し誤った事も一応は考えられ、また韋自身が勘違いをしていた可能性もある。〕。そこから韋の李党説を疑う説も出されるが、いづれにせよ李党の一員であった事は確かなようで、この当時に世に出たと考えられる後述『周秦行紀(しゅうしんこうき)』の真の撰者と考えられている〔李前掲書。〕。また、同書が謫官先を明州(現中共浙江省寧波市)とするのは同書の誤伝と考えられる〔李前掲書。〕一方で、或いは康州への謫官後に科が軽減されてより都に近い明州に除替された可能性もある〔王前掲書。〕。 その後、武宗の即位によって開成5年(840年)に徳裕が再度入相すると韋も復朝されたらしく、会昌6年(846年)には楚州の刺史(秩正四品上)を拝命して御史中丞を兼帯し〔李前掲書。前掲瓘伝と「題名」、及び『全唐詩』所収趙嘏「山陽韋中丞罷郡因献」詩(巻549)、同「送韋中丞」詩(巻550)の記述に因る。〕、宣宗の大中2年(848年)2月に(治所は現中共広西壮族自治区桂林市)に栄転するが、その間、長安では大中元年に徳裕が失脚しており、大中2年5月に牛党のが宰相となるに及ぶと、馬によって僅か半年前後で太僕卿分司東都(の洛陽分局長官、)という名のみの閑職へと除替された〔前掲「題名」、莫書。〕。馬は徳裕から疎まれて入朝後の要官就任を阻まれていたと伝えられ〔新旧両『唐書』馬植伝(旧巻176列伝第126、新巻184列伝第109)。〕、『桂林風土記』に拠ると長安在官時の会昌年間に徳裕と親しい韋に執り成しでも求めたものか28度も面会を申し込むが全て無視され、これを恨んで宰相の座に就くや即座に韋を除替したという〔莫前掲書。〕。なお、洛陽では崇讓里に邸を構えていた〔前掲「題名」。崇讓里は洛陽城の南東部、最南の東から2箇目の坊。「洛陽城図」参照(図に「崇让」とある坊)。〕。 分司就官後の経歴は伝わらず卒年も不明であるが、懿宗咸通2(861年)乃至3年に康志睦(こうしぼく)の碑文を撰しているので〔宋陳思『宝刻叢編』卷7「唐贈太尉会稽郡公康志睦碑」所引『京兆金石録』。『宝刻叢編』巻5帰融条、巻6楊述条。前2者に2年、最後者に3年とある。〕当時の生存は確認できる(時に73乃至4歳)〔李前掲書。〕。 韋の著作は僅かに『全唐文』の3篇〔巻695所収。前掲「宣州南陵県大農陂記」「修漢太守馬君廟記」「浯渓題壁記」の3篇。〕と『全唐詩』に収める1首〔巻507所収「留題桂州碧潯亭」。但し、実は前掲莫書からの抜粋。〕しか現伝しておらず、文集等の存在は確認できないが〔李前掲書。他に前掲「唐贈太尉会稽郡公康志睦碑」の撰文があったが伝わらない。〕、一に牛僧孺の名を騙って『周秦行紀』を偽撰したと目されている。唐室に対する不敬な表現が見える同書は宋が宗閔と並んで徳裕の政敵であった牛の排斥を狙った韋が著したものと説いて以降〔張洎『賈氏譚録』。晁公武『郡斎読書志』巻13。〕、その明証が示されていないので異説もあるものの、何らかの根拠に基づくであろうと是認され通説となっている〔李前掲書。〕。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「韋カン (唐)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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